書籍「不登校そうだんしつ」出版

あべが思うこと

いじめではないだろうか

学校を休みがちになったとき、

まずは、「いじめ」の可能性を疑ってあげて下さい。

「違ったら、違ったで、それでヨシ」です。

明らかに「いじめではない」と、わかっている場合を除いては、

まず、「いじめ」の可能性を考えてあげて欲しいのです。

最近、保護者の方が不登校に関する“知識”をすごく持たれているのを感じます。

様々なところで“知識”は得られますからね、保護者の方も一生懸命に手がかりをつかもうとされるのでしょう。

 

そうして、

「『不登校』とは、こういうものである」みたいな考え方を、ご自分のものにされている保護者の方は増えています。

 

しかし、そうした“知識”あるいは“情報”“考え方”が、時にはジャマをしてしまうことがあります。

 

学校へ行かなくなった、学校が嫌なのかな、もしかしたら「いじめ」られているのかな、

というシンプルな発想を大切にして欲しいなと思います。

「不登校とは、こういうものである」なんて勝手に決めてしまうと、シンプルな発想すら失われてしまいます。

 

余計な“知識”によって、その発想がジャマをされてはいけません。

“情報”を得るだけではなく、お子さんのことも見てあげて下さい。

 

話を戻しますが、休みがちになったとき、

まずは、「いじめ」の可能性を考えてあげて下さい。

 

しかし、本人の口からは事実を聞けないことが多いです。

 

「ウチの子はウソをつかない」「ウチは何でも話す親子関係だから」などと思っていても、

本人が事実を言えないことは多いです。

ウソをついている、と言うには、あまりにも表面的すぎです。

「オトナを信用できない、親を信用していない」から言わないケースもありますが、

「家族を心配させたくない、周囲に気を遣わせたくない」という気持ちから言えないケースもありますし、

「恥ずかしい、情けない」あるいは「仕返しがこわい」という感情により言いだせないこともあります。

 

だからこそ、

オトナの側が、まずはその可能性を念頭に置いて、そして、お子さんと接してあげて欲しいのです。

 

まずは聞いてあげて下さい、

「学校で嫌なことがあったの」と。

 

話してくれたら、それでヨシ、です、とことん聞いてあげて下さい。

 

「なんにもない」と言われたら、もう問い詰めたりはしなくてイイです、

今度は学校へ聞いて下さい、

「『いじめ』とかの可能性はないですか」と。

 

学校も把握していないケースも多いです。

しかし、先生によっては、そのサインを感じていたりもしますし、

担任の先生が、部活動の顧問へ確認をしてくれたりもします。

 

本人は否定する、学校は把握していない、

そうであっても、可能性は捨てないでいて下さい。

 

前述の通り、明らかに「いじめではない」とわかるまでは、

可能性をゼロにはしないで下さい。

オトナの“知識”による推測で決めつけてしまわないように気をつけて下さい。

 

ボクは過去の記事で、

「原因を探しても意味は無い」という内容のことを書いたと思います。

 

それは、

「原因さえわかれば解決は簡単」みたいな論調に対してボクは否定的であるということと、

あとは、「原因の“追究”」が本人を苦しめてしまうケースを避けたいということ、が主旨です。

 

「いじめ」の可能性を念頭に置いておくことは、

決して、その原因を「突き止めよう」という目的ではなく、

本人が言いづらいだろうからこそ、オトナが可能性を捨ててはいけない、という意味で、

大切だと思っています。

 

ありきたりな言い方ですが、

やはり、本人の「サイン」を見逃さないで欲しいんです。

 

“知識”や“情報”は大切ですが、

それが「先入観」につながると、サインを見逃してしまいます。

 

「不登校とは、こういうものである」という考え方に固まってしまうことは、

お子さんを見る目にフィルターがかかってしまうようなものです、アンテナの感度がわるくなるようなものです、それでは知識も情報も生かされません。

 

ボクが全くお役に立てなかったケースがあります。

 

3ヶ月以上、毎週、その生徒と接していたにもかかわらず、

ボクは「いじめ」の事実を知ることができませんでした。

 

ある日、彼のお父さまからボクに電話があり、そこで初めて知りました、

ご家族が知ったのも、そのときが初めて。

 

ご家族は本人から聞いたのではなく、学校の先生から聞いたとのこと、

しかし、学校の先生も、その事実を知ったのは、その日が初めて。

 

彼はその日、自分をいじめていた人間に対して「反撃」をしたのです。

いじめられ始めてから、その日まで、彼は誰にも事実を言っていませんでした。

 

その日の前々日が、ボクと彼が会った最後の日になってしまいました。

 

それから全く連絡をとっていないこともあり、詳しく書くことはできないのですが、

 

「いじめ」の可能性は念頭にありました。

彼の明るさや礼儀正しさ、人懐っこさに接するたび、

本音は話してくれていないかもな、という感覚はありました。

 

にもかかわらず、

結局は彼の気持ちなど聞いてあげることはできず、事実を知ることもできず、ボクは何の役にも立てませんでした。

 

正直、かなり悔いが残っています。

今でも、申し訳ない気持ちが残っていますし、その後の彼が気になったりもします。

 

「いじめ」は簡単に見えてこない、ということなんですね。

 

だからこそ、学校を休みがちになったときなどに、

まずは、その可能性を考えてあげてもらいたいと思うのです。

 

仮に、「いじめ」が原因だった場合、

安易に「早く学校へ戻りなさい」とは言えないですよね。

 

「いじめ」ではなく、「からかい」「トラブル」などでも一緒です。

「行きなさい」と言われて行けるものではないですし、

簡単に「行きなさい」などと言える状況でもないのです。

 

だからまずは、その可能性を考えてあげて欲しいのです。

 

繰り返しですが、

違ったら、違ったで、そのときに、また別の可能性を考えてあげて下さい。

 

また繰り返しですが、

決して、原因を突き止めるのが目的ではないですからね。

 

その可能性を捨てないで下さい、推測で決めてしまわないで下さい、ということです。

 

可能性を捨てないでいれば、しっかりと目を向けてあげられますし、アンテナも反応しますし、

いざ、本人が打ち明けてくれた際に、全力で味方になってあげることができます。

 

お子さんに対して、しっかりと目を向けてあげられていれば、

そこで初めて、“知識”も“情報”も生きてくるものです。

P.S.

今回の記事、

本当は「休みがちになったときに、まず考えて欲しいこと」というタイトルで、

「いじめの可能性」以外に、もう1つ触れたかったのですが、

あまりに長くなって、またややこしい記事になってきて、そして時間がなくなってきたので、やめました。

近いうちに、もう1つのことは書きますね。

内容は「本当は学校へ行きたい、と思っている可能性」についてです。